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福井「越前・若狭」の旅情報 ふくいドットコム

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尊王攘夷の志を胸に挙兵

 幕末の水戸藩では、藩の実権を巡り保守派と尊王攘夷を強硬に主張し藩政をリードしようとする改革派(天狗党)に分かれ、激しく対立していました。両派の対立が深刻化する中、1864(元治元)年11月1日、天狗党は家老の武田耕雲斎を将に立て、国政上の課題でもあった横浜港鎖港を実現しようと筑波山で挙兵。当時、横浜港鎖港を主張していた禁裏御守衛総督(※京都を警護する役職)、一橋慶喜(徳川慶喜)を頼って西上を開始します。

そして福井へ

 幕府は一行を「浮浪之徒」とし、諸藩に追討令を発したため、先々で行く手を阻まれますが、行路を変更しながら西上を続けました。その途中、美濃国で進路を北に変え、12月4日、蝿帽子峠を越えて越前国に入りました。領内に天狗党を迎えた大野藩は、藩主である土井利恒が江戸在役中であり、わずか200人程度しか戦力に割くことができませんでした。戦わずして千人近い天狗党を領内から追い払うため、天狗党一行が通行する道筋に当たる5村200軒を超える民家を焼き払うという焼土作戦を取ります。この策で、多くの民衆が家を失うことになりました。

迫る包囲の環

 一橋慶喜が天狗党追討軍の総大将となったことから事態はクライマックスを迎えます。当時、慶喜は禁裏御守衛総督という京都を警場する役職についており、天狗党が京に近づけば討伐せざるをえない立場にありました。
 この時、福井藩を含む諸藩は第一次長州征伐に多数の兵を割いていたことから(福井藩主、 松平茂昭は副総督として藩兵3万700人を率いて豊前に出陣中)、慶喜は加賀藩、会津藩、桑名藩の兵4千人を従えて討伐に向かいます。
 一方、福井藩の家老で府中(武生)城主、本多副元と鯖江藩主、間部詮道は、天狗党殲滅の方針を固め、自領に通じる峠を厳重に封鎖。天狗党が敦賀方面に進路を変更するとそのまま追撃に入りました。当時の福井藩には、安政の大獄で春嶽が隠居に追い込まれるなどしたため、幕命を実直に守ろうとする意向が強くある一方で、親交の深かった水戸藩の家臣が起こした事件であり、積極的に動けないといったジレンマも抱えていました。

敦賀で散った水戸烈士

 頼みの綱である慶喜が天狗党討伐軍の総大将であることを知り、包囲の環が迫って行く手もふさがれたため、追討軍による総攻撃直前の12月11日、天狗党一行823名は敦賀の新保で降伏。初めは加賀藩に預けられ、丁重な扱いを受けますが、幕府に引き渡された後は、肥料となる鰊粕を貯蔵する蔵16棟に送られ、罪人の扱いを受けることとなります。その内353名は形式的な取り調べを受けて斬罪となり、1865(慶応元)年2月、敦賀市松島町の来迎寺境内で刑に処せられました。この時、福井藩は春嶽が一方的な浪士の賊徒扱いを好まずと言って太刀役を断ったとされています。残る約470名も遠島・追放・水戸渡し・寺預け・江戸送りとなり、水戸で始まった天狗党の乱は、敦賀で終息することとなりました。
 松平春嶽は、動くに動けなかった福井藩に代わり活躍した加賀藩の働きに感謝し、1865(慶応元)年正月3日、使いを金沢に送り謝辞を述べています。また、明治に入り、自らの回顧録「逸事史補」の中で、慶喜が天狗党に対し、かつての部下ながら厳しい処置を取ったことについて、「武田らは…ああかわいそうであった。」「慶喜公が(私に)言われるのは、『私がもし春嶽さんであったならば寛大な処分ができて、(彼らは)禁錮ぐらいで済んだだろうが、実に気の毒であったことしきりである。』」と、前水戸藩主徳川斉昭の子であったが故に、厳しく接しなければならなかった背景を説明しています。
 悲劇の運命を辿った天狗党ですが、福井での宿泊時、温かいもてなしを受けた御礼に巨大地図を残したりと、地元民との交流などの話が数多く残っています。また、現在、敦賀市と水戸市は姉妹都市にもなっています。


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